2月2日に覚醒剤を所持したとして逮捕された清原和博容疑者。覚醒剤の使用も認めている清原和博容疑者だが、10年以上前の巨人時代の頃から覚醒剤を使用していたと考えられており、また、巨人時代の元同僚の野村貴仁氏も同様の証言をしている。
もし巨人時代からの覚醒剤の使用が裏付けられれば、巨人にとってはかつての清原時代の悪夢が再燃し、頭の痛い問題となってしまう。
清原和博容疑者が古巣・巨人を「震撼」させていた
清原が1997年から2005年までの9シーズン、巨人のユニホームを着ていたという事実は消えない。さらにその期間中、すでに“クスリ漬け”となっていたことまでも濃厚と見られ始めている。普通に考えれば、その当時のチーム体質が疑問視され、清原に対する管理責任についても追求されて然るべきだろう。
しかしながら巨人には、どうしてもそれらを認めたくない理由がある。球団内には「自分たちの球団も清原の被害者」といういまだ強い“清原アレルギー”があるからだ。
かつて巨人在籍時代の清原はスーパースターの座を確立していたが、球団にとって明らかな厄介者にもなっていた。2000年ごろから清原は自らを中心として一軍選手数名をメンバーに加えた「清原軍団」を結成。2002年オフに主砲の松井秀喜がヤンキースに移籍するとチーム内のタガが外れ、清原軍団は一気に幅を利かせるようになっていった。
(中略)
遠征先では毎晩のように豪快に飲み歩き、チーム内で若手の模範となるどころか秩序を乱す存在となっていた。
そういう存在であったにも関わらずファンからは「番長」と呼ばれて絶大な人気と熱烈な支持を得ていた。これに歯止めをかけようとしたのが、2004年に巨人監督に就任した堀内恒夫氏(現参議院議員)だ。その堀内監督はチーム内で“ガン”となっていた清原軍団を解散させるべく、まずはリーダー・清原のイメージ改革に乗り出し、就任早々から報道陣に「清原を『番長』と呼ぶな」と訴えた。
(中略)
2004年のシーズン終了後には堀内監督がムード悪化の元凶となっていた清原を構想外とし、他球団へのトレード放出を試みた。だが契約を1年残している清原が球団事務所に直接乗り込んで「編成権は監督にあるのか、フロントにあるのか」と直談判。事前に清原は懇意にしていた一部朝刊スポーツ紙に当時の滝鼻卓雄オーナーへ直談判することを裏情報として流しており、その当日に一面掲載させる用意周到ぶりを見せていた。
(中略)
2005年8月4日に広島市民球場で行われた広島戦では前代未聞の騒動も引き起こす。試合前に打順が7番であることを当時の山本功児ヘッドコーチから伝えられた清原は納得せずに激怒。ベンチでおもむろに携帯電話をかけながら、受話器の向こうの相手に「今日な、7番やで! 7番! 阿部(慎之助捕手)より下や!」とこれ見よがしに記者の眼前で叫んだ。
そして試合では4回に本塁打を放ち、ベンチ前で迎えた堀内監督や選手、コーチの出迎えを“完全スルー”。これが、あの『ハイタッチ拒否事件』の一部始終だ。
出典:ITmedia ビジネスオンライン『何が起きていたのか? 清原和博容疑者が古巣・巨人を「震撼」させていた』
この『ハイタッチ拒否事件(2005年8月4日)』は、この日注目の話題になり、次の日のスポーツ新聞にはこの“事件”の記事が取り上げられました。
2005年8月5日(金) スポーツニッポンより
清原7番に怒り 堀内監督の出迎え無視
【広島・巨人】4回1死、本塁打を放ち生還した清原はナインの出迎えを無視してベンチへ戻る笑顔なき22号だ。巨人・清原和博内野手(37)が4日の広島戦に19年ぶりとなる7番で先発し、22号ソロを放った。しかし7番降格にプライドを傷つけられたのか、ご機嫌は最悪。ベンチで出迎えた堀内恒夫監督(57)の歓迎も無視する大人げなさだ。試合も逆転負けし、チームの雰囲気は最悪。勝利に貢献しない一発に、清原は満足したのだろうか。
【巨人2―4広島】煮えたぎる怒りをボールにぶつけた。清原は打席から動こうともしない。バックスクリーン左上段への130メートル弾。その直後だ。三塁側ベンチに戻った清原だったが、堀内監督の出迎えを無視。ナインともハイタッチをせずにベンチに座った。
「打った球?分からん」。球団広報にそう言っただけ。かつてない屈辱感が胸を締めつけていたからだ。左ひざ痛から3試合ぶりに復帰したが打順は7番。入団1年目の86年、西武で7、8番を打って以来19年ぶりの経験だった。今季は開幕4番も故障の度に5、6番と下がっていった。この日は清原が先発を志願。だが堀内監督は打撃好調の阿部を6番にそのまま置いた。
「足のことがあるから楽なところで打たせてやろうと思った」と堀内監督は言う。欠場明け、しかも走れる状態ではなく途中交代の可能性が高いだけに指揮官としては当然の判断とも言える。だが清原にとっては自らのプライドの方が大事だったのだろう。
長嶋、原両監督時代は清原がどんなに打てなくても6番まで。練習中には山本ヘッドコーチが左翼ポール付近で清原に事情説明したが、両手を広げるジェスチャーを交え、強い口調で何かを言い返した。打順と直接結びつくかは不明だが試合前のベンチに座り、携帯電話の相手に「オレにもプライドがあるんや」と話す場面もあった。
試合後の清原は「振ったところにボールが来た。130メートル?もっと飛んでるよ」と笑顔も見せたが、7番の質問には一切無言だった。その清原がバスに乗り込む横で山本ヘッドは報道陣に「7番に置いて何が悪いんだ!」と激高した。
出典:スポーツニッポン
2005年8月5日(金) サンケイスポーツより
清原『7番』ざけんなよ弾!19年ぶり屈辱に怒りのどやっ
(セ・リーグ、広島4-2巨人、14回戦、広島8勝6敗、4日、広島)蒸し暑い広島で、衝撃音がこだました。4日ぶりにスタメン出場の清原が飛距離140メートルの22号特大ソロ。弾丸ライナーは、アッという間にバックスクリーン左のスタンド上段へと消えた。
「打った球? 分からん、振ったところにボールが来た。140メートル? もっと飛んだやろ」
清原は無表情、ド迫力のコメントで球場を後にした。広島市民球場では通算500号を含め今季5発目。打った直後はゆっくりと歩を進めたが、三塁に差しかかったところで、右のコブシを観客席に大きく突き出した。
怒りの一撃だった。電光掲示板に浮かび上がった『7番・清原』。7番でのスタメン出場は西武入団時の昭和61年8月26日(ロッテ戦)以来、実に19年ぶり。プロ20年間、長距離砲の看板を背負ってきた番長には、耐え難い屈辱だった。
舞台裏は物々しい雰囲気に包まれていた。試合前には左翼ライン際で清原と山本ヘッドコーチとの“青空会談”が行われた。関係者によると「左ひざ半月板損傷」で最近2試合欠場の清原に対して、この場で「7番」の起用を通告したが、清原がこれを猛然と拒否したというのだ。
声を荒らげる番長。身ぶり手ぶりで必死に説得する山本ヘッド。“青空会談”は約15分間続いていったんは合意。しかし清原はその後ベンチ裏に戻ると、再び不満をあらわにしていたという。
出典:サンケイスポーツ
そもそも清原和博容疑者は、巨人時代の終盤になると真面目に野球に取り組んでいなかったとのこと。
「練習妨害」、「若手を連れ回し飲み歩く」、「チンピラみたいな格好」、「変化球投げるなと相手投手に威圧」、(極め付けは)「覚醒剤?」など、様々な問題行動があったと言われています。
このような問題行動・態度で暗黒巨人時代いや暗黒清原時代を作り上げ、”巨人のガン”といわれていました。この時代に巨人にいた若手への悪影響は大きかったでしょう。